046144 ランダム
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はんぶんのやさしさ

はんぶんのやさしさ

4. 雨のせらせら

まえがき。
素性の知れない女性と無愛想な教育実習生や、
自由奔放な女子高校生と雨の嫌いな男子高校生。


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1.
 長い冬だったね。そう瀬良さんが言った。
 暦の上では春になってからも、暁を覚えないような眠りには程遠く、毛布がずれる都度凍えて目が覚めるような朝が続いた。はっきりとした暖かさを感じるようになる頃には既に五月の半ばに入っていた。冬の間は一度も瀬良さんと顔を合わせていなかったから、今回話すのはおよそ五ヶ月ぶりというところになる。
 彼女は駅の近くの広場で、片手にビニール袋を持って、こらとか待てとか言いながら、犬に詰め寄られていた。餌をやっているのだろう。「瀬良さん」と僕は声をかけた。彼女は僕の姿を認めると、ばつの悪そうな顔をし、手を挙げて「やあ」と苦笑いした。
「しばらくじゃないか」
「はい。五ヶ月ぶりです」
 僕が近寄ると、追い払うまでも無く犬は瀬良さんから離れた。十メートルほど離れた地点をうろうろする。二年ほど前からここにいる、今時にしては珍しい野良犬である。犬についてはあまり詳しくないので正確な種は分からないが、自分の知っている中では秋田犬が一番あの犬に近い容姿をしている。愛嬌はあるが、ことあるごとに吼えるので騒がしい。瀬良さんはそんな彼を気に入っている様子で、こうして餌をやることもしばしばだが、野良犬に施しを与えるという行為に自分でも矛盾を感じているらしく、その姿を誰かに見られるのを嫌う。
「そんなに会っていなかったか?」と瀬良さんがベンチに腰掛けつつ言う。
「冬は一度も会っていません」と僕も隣にお邪魔する。
「寒いから、外に出るのが億劫だったんだ」
「ああ、それで」
 ベージュのトレンチコートに身を包んだ彼女は、短く揃えられた髪を襟にうずめて、嬉しそうに陽光に目を細めている。本当に春が嬉しくてたまらないという様子だ。
「小菅は高校生なだけあって、半年くらい会わないと、やはり変わる」
「変わりましたか」
「それはもう、変わった」
「そんなつもりはなかったんですがね」
「今だって、変わり続けている。ほらほら」
「確かに、背は沢山伸びました」
「竹みたいなやつだ」
 高校に入っても、大人になるのを忘れているみたいに僕の成長は続いた。おいそろそろ十分だ、もういいぞと思い始めた最近、ようやく止まりつつある。瀬良さんは女性にしては背が高い方だが、それでもこうして並ぶと明確に差が現れる。
「瀬良さんは、あまり変わりませんね」
「年寄りだからな」
「変わる必要が無いんだから、いいんでしょう」
「その通りだ。よく分かっている」
 瀬良さんが頷く。それから二人で、黙りこくってぼうっとする。こちらの顔色を窺うように一定の距離を保っている犬を、二人でそれとなく眺める。正しい春の過ごし方である。


 灰色の朝だった。陽光がやたらと朝を主張しないため、かえって気分良く目覚めることができた。時計さえなければ、夕方と言われても疑わないだろう。見渡す限り一色に染まった空からは、玄関を出てもしばらく経つまで気付かないような小雨が降っていた。傘を持って行くか悩んだ挙句、引き返す面倒が勝り、そのまま学校ヘ向かった。
 こういう日に限って、律儀に雨は降る。いや、運の悪い日のことばかりが印象に残っているだけで、実際の確立は五分五分なのかもしれない。思い通りに事が運ぶと、今度はそれが当たり前のように思えてしまい、本来なら喜ぶべき事でも印象が薄れてしまう。
 雨は強くも弱くもなったが、結局一度も止むことは無く、昼の時点で、この分だと一日中降り続きそうに見えた。濡れる覚悟をする必要が出てきた。
 雨に濡れる自分を考える。雨中を傘を差さずに歩くのは、身体的にも辛いが、精神的にも辛い。萎縮した髪や顎から滴り落ちる水滴。濡れた姿というのは傍目に惨めだ。それでいて帰宅して鞄を開いたら教科書類が湿ってふやけていたりすると、傘より便利な雨避け手段を発明出来なかった人類の歴史までが憎らしくなる。
 そこまで考えてから、意識を外の雨から授業の方に戻す。途端にチョークが黒板と擦れる音や、人が大勢いる場所特有のさわさわした音が流れ込んでくる。時計に目をやると、もう七時間目も終わりに近づいていた。五分もすれば部活なので、指の準備運動を始めた。
 こうして気を抜いて授業に取り組んでいられるのは、科目が保健体育で、且つ教育実習生による授業だからだ。教壇を必要としなさそうな高い身長を持つ彼は、一週間前に本校にやってきて、このクラスの担当となった。不規則なパーマのかかった長髪は染め直したように漆黒で、彫りの深い日本人離れした顔立ちは、どことなくこちらを蔑んでいるようにも見える。よく見れば目尻が僅かに下がっている。これが挑戦的な顔付きに見える原因だろう。そのせいもあってか、彼は未だに生徒達と打ち解けていない。そうしようとする気も無いらしく、自らコミュニケーションを取る様子も見られない。名前は確か、随分と風変わりなものだった。今は思い出せない。
 彼の授業姿勢は、教卓から動かず黒板に重要な単語を目立つ色でで並べていき、必要な箇所は説明を加えるという、まあ一般的なものだ。時折、返ってくるはずが無いと知っていつつも申し訳程度に質問を投げかけてくる。生徒は皆、何気なく彼から視線を逸らす。小さな沈黙が教室に流れる。彼もその反応は最初の数日で慣れたのか、追求せず自答してまた授業を進める。教室の隅で彼の様子を見守る教師が困ったような笑みを浮かべる。
 教え方が悪いかというと、そうではない。高校の保健体育に教え方もなにもあったものではないだろうし、保健教師が唯一努力すべき点、興味を引かせるというところもしっかり抑えている。この学校では大体どこの教室へ行っても、似たような光景が見られるだろう。落ちこぼれたくは無いが、必死に競争もしたくない、そういう学力の人間が集まる学校なのだ。積極性は皆無。彼は運が悪かったとしか言いようが無い。
 教壇に立ってまで年下に半透明に扱われるのは、傍目にも辛いと思う。出来ることならどうにかしてあげたいが、出来ることがないのでどうしようもない。結局、僕も他の人と同じような態度で授業に臨む。頭の中では、小さくエールを送りながら。
 授業の終わりを告げる鐘が鳴った。挨拶をし、教育実習生が教室を出ると、後ろで見ていた教師が、授業態度について冗談交じりに注意した。そのとき教師が口にするのを聞いて、ようやく僕は彼の名前を思い出した。
 早雨。サツサと読むらしい。面白い偶然に、雨という字が入っている。今まで思い出せなかったのが不思議だった。


 翌朝は、一年に数回訪れる、頭の調子が抜群に悪い朝だった。目が覚めても悪い夢を見ているような不快感が続いた。窓を開けてベランダに出て、空を仰ぎ見て、今日も立派に灰色だと感心し、伸びをして体をリセットさせようとする。頭に血が上って益々具合が悪くなる。
 ベランダからの見慣れた光景に、今日はなぜだか違和感を覚えた。視界の隅に、普段見ない種類の緑色が映っていた。視線をそちらに移すと、ライトグリーンのスウェットを着た人物が目に入る。なんだ、あの緑の中でも特別趣味の悪い緑は。酔狂な格好をする人がいるものだ、大方頭の悪い学生だろうとピントを合わせると、馴染みの無い年代の人間の筈なのに、なぜか知った顔だった。
 例の教育実習生、早雨だった。どうして、と疑念が湧いたが、なんてことはない、あのような格好でいるということは、単純にこの辺りに住んでいるということだ。
 早雨は首を右傾させて両手を組んで後ろに回し、気持ち悪そうに伸びをする。その後ろから別の人物が近づいてきた。こちらは色褪せたジーンズとTシャツ姿で、打ち解けた様子で早雨に何か言っている。二人は同年代に見えた。断定は出来ないが、おそらく早雨はジーンズの男と共に暮らしているのだろう。いつしか早雨は、自分は貧乏だと公に言っていた気がするし、実際見た目が貧相だ。二人で同じアパートを借りて倹約に努めていると見た。
 誰にも自慢できない知識を得た僕は、居間に下りて朝食を摂る。天気予報を見ると、今週は雨続きらしい。梅雨が始まるのだろうか。
 いつもより僅かに遅く家を出て、五分ほど自転車をこいだ後、またもや傘を忘れて家に舞い戻った。その際に開け放していた自室の窓を閉めに行き、再び玄関を出てみると、自転車の鍵が見当たらない。確かに引き抜いて、制服のポケットに突っ込んだはずだった。丁寧に探してみるが、一向見つからない。傘を取りに行く程度の短い時間なら鍵をかけなければよかったと後悔しても遅い。後輪の動かない自転車を車庫に運んで、徒歩で登校することを決めた。遅刻は明白だが、親に頼む気にもならなかった。
 日頃自転車で通っていた道を、のろのろと歩く。自転車が何台も追い越して行く。僕の通う高校は電車やバスで通うには位置が悪く、八割が自転車通学だから、この時間帯、この道はかなりの数の自転車が行き交う。自分の速度と向こうのとを比べ、自転車とは実に効率的な乗り物だ、と今更感心する。次第に日が差してきて、雨も降っていないのに傘を持って歩く自分はなんだろうと嘆息をつく。
 半分くらい来た。踏切が見えてくる。僕が渡ろうとすると、計ったようなタイミングで遮断棹が降りる。別に急いでいないから構いませんよ、とすましていると、甲高いブレーキ音が背後で鳴った。音のした方に目をやると、今朝方ベランダで目にした、趣味の悪い男がいた。早雨である。
 平常の僕と同様、自転車で通勤しているらしい。彼は電車が来ると思われる方向を見据えて、落ち着かなさそうに指を動かしていた。僕は決して口には出さずに、お早う御座います、今日も暗雲立ち込めますね、それでも一日があなたにとって良いものでありますようにと彼に呼びかけてやった。
 彼は返事をした。「ああ、おはよう」
 電車が通り過ぎる。旋風が早雨の長すぎる前髪を揺らす。
 ――あの見ている側にも鬱陶しく見える前髪。そんなに長くて視界に影響は無いのかと考えていたら、やはりあるようで、時々前が見えていないような動作を取る。なぜ切らないのか、彼なりに何か信念のようなものがあるのか。これについてはいつか、誰も訊ねていないのに、彼自身が勝手に答えてくれた。
「言い訳をさせてもらうと」
 ある日の授業中、咎められたわけでもないのに、突然こう切り出したことがあった。
「髪の伸びる速度が尋常じゃないんだ。加えて貧乏だから、そう何度も美容室には行けなくて。一度自分で切ることにも挑戦したけれど、残念な結果に終わった。月に三日くらいは、俺にも髪の少ない期間があるんだけれどね」
 一方的にそう述べた後、また授業に戻った。普段は私語をしない彼が突然妙なことを言うものだから、大概の生徒は狐に摘まれたような顔をしていたが、丁度髪に関する回答を求めていた僕は、むしろ得心していた。
 そこまで回想した後、現状を思い出し、慌てて「おはようございます」と返す。
「ええと、君の名は小菅だったよね?」
 続けて僕の苗字を言い当ててくる。いや、知っていてもおかしくはない。おかしくはないが、何か妙だ。
「そうです」
「俺のことは分かる?」
 流石にそれくらいは。「分かります」
「それじゃあ、俺の住んでいる場所は知っているかな?」
 ――なるほど、彼の方でも僕が近くに住んでいることを把握していたらしい。いつの間に見られたのだろうか。朝の時点で気付かれていたか、それとも更に前か。
「知らないかな。いや、どうでもいいことなんだけれどね。実は、俺達は意外と近くに住んでいるんだ」
 彼は自分の家の位置を説明し(それは既に僕も知っていたが)、またそこには実習の期間だけ、一時的に友人に住まわせてもらっているだけだ、という話もした。ジーンズの男が友人という点で、僕の推測は半分当たっていたようだ。
「一昨日、家から出る小菅の姿を見てさ。それで、知ったんだ」
「なるほど」
 ようやく彼の存在に慣れ始める。遮断柵が開く。
「ところで昨日一昨日は小菅は自転車だったけれど、今日は違うんだ」
「はい。今日は自転車が休みの日なんです」
「時間、間に合うの?」
 首を振って諦めたような動作をすると、彼は「おいおい」と小さく笑った。その後自転車を加速させ、たちまち見えなくなった。
 早雨が去って、僕は考えた。彼がこういう――今もいまいち掴みきれていないが――性格の人間だとは予想していなかった。ひとつ共通点が見つかったからといって、気軽に声をかけてくるような人間だとは思っていなかったのだ。話し方も予想とは随分違った。生徒など殆ど眼中に入れていないような性格を想像していただけに、逆に拍子抜けだった。彼の超然とした態度には、好感を持っていたのだ。意外と普通の人らしい。
 珍しい人間に話しかけられたなと思っていたが、この後で僕は、更に意外な人物に話しかけられた。
 実習生と別れてから十分ほどして、背中を叩かれた。今度は誰だと振り返ると、美春がぎこちない笑みを浮かべて、「やあ」と変な挨拶をした。
「小菅くんって、自転車通学じゃなかったっけ?」と、先程聞いたような言葉をかけてくる。
 二度同じ言葉を繰り返すのもなんだと思い、「自転車なんて時代遅れの乗り物だよ」と適当なことを言ってみる。年中徒歩通学の美春も、「そうだよね」と同意した。無駄が一切付いていない細足が、その言葉になんとなく説得力を持たせる。腕輪も平気で入りそうだ。
 美春はよく学校に遅れてくる。欠席の回数も多い。学校が終わる前にふと消えることすらある。体が弱いのか、不真面目なのかは分からない。たぶん後者だろうと勝手に予測している。早退する彼女を幾度か見たことがあるのだが、そのとき美春は確かに嬉しそうな顔をしているのだ。さあこれから何をしようか、という風に。自由人美春、と勝手に名付ける。
 しかし、なぜ彼女は声をかけてきたのだろう。同じ教室で授業を受けているという他には、僕らには何ら接点が無い。今まで会話を交わしたことも殆ど無い。近所に住んでいるわけでもない。
 そうか。多分、朝の占いで、「天秤座のあなたは背の高い人に無理して話しかけると恋愛運急上昇」とか、そういうのがあったのだ。早雨もその口で、今日は話しかけられる日なのだ。そう解釈した。
 並んでいるようで少しずれて歩く僕らを、自転車が次々と追い抜いていく。艶のある跳ね気味のショートの髪を揺らしながら、不意に美春が訊いてくる。
「小菅くんは、あの人と仲が良いの?」
 あの人、とはおそらく早雨のことだろう。先程話していた姿を見られていたらしい。あれを見て、僕らの関係に興味を持ったのだろうか。
「いや、さっきのが初めて交わした会話」と僕は正直に答えた。
「へえ。何を話していたの?」
「そんなんで学校に間に合うのかとか、そんなこと」
「ああ、そういうこと」
 納得したように頷く。
「私も間に合いそうにありません」
 朗らかに笑んだ。
「だろうね」
「あはは」
「僕はこうなったら、いっそ精一杯遅れていくつもり」
「そうですか」
「天気もいいし」
「私は中学の頃、眠って電車を乗り過ごしちゃって、自棄になって終点まで行ったよ」
「それは面白そうだ」
「楽しいけれど、やっぱり相応のお金は掛かる」
「だろうね」
「――さっきの小菅くんたちは、本当に不思議な組み合わせだったよ」
「本人達も、何で一緒にいるのかよく分かっていなかったくらいだから」
「周囲と一向に仲良くなろうとしない教育実習生が、クラスで最も大人に懐かなさそうな生徒と並んでるんだよ」
「失礼だな。懐くよ」
「懐くの?」
 そんなとりとめのない会話をいくつか交わした後、彼女は急に足を速め、徐々に僕と離れていった。一方僕は、先の会話の内容を反芻して、美春と話していたときの気分を継続させたまま、さらに歩調を緩める。彼女が頻繁に遅刻や欠席を繰り返す理由が、少し分かった。
 教室に着いたのは平生の一時間後で、これ以上ないほどゆっくり歩いた僕としては、時計の針が憎らしく思えた。美春と視線が合うと、彼女の目が「どうだった?」と言っていた。
 登校手段が変わると色々なことが変わるようだ。


2.
 春という季節にあまり良い思い出が無いのは、変化の時期だからだろう。出会いの季節、別れの季節などと呼ばれているが、要するに変化の季節である。学校や会社などの団体に所属する限りは、春を迎えるたびに大きな変化を受け入れなければならない。
 特に、小学の頃から経験しているクラス替えというのが、僕の中で最もポピュラーな変化である。変化を嫌う人間にとって、これほどの苦痛は中々無い。そもそもクラス替えといわず、席替えですら疎ましいのだ。親しい人が離れる。親しくない人が増える。絶え間なく周囲を観察する。状況によっては振舞い方を変える。無意味な話題で場を持たせ、詰まらない時間を必死に長引かせる。エイプリル・フールに作っておいた四月用の笑みをここぞとばかりに使う。疲れる。一年に使う体力のうち二分の一はこの辺りで消費される。以後、位置、立場が確立していくにつれ、徐々に不自然が減っていき、疲れなくなる。十二月にもなると、来年のことを考え始め、憂鬱になる。
 無論、変化には良い変化もある。しかしそこに行き着くまでの疲労が問題なのだ。増して、悪い変化に向かって身を磨り減らすとなると、何の為に生活しているのか分からない。人里離れた山中にでも篭りたくなる。雨も苦手だが、春はもっと苦手だ。春雨という名はあまり好きではない。
 六月。ようやく安定期が訪れる頃だ。友人や、取るべき立ち振る舞いが固定された。今年も僕は、たまに気の利いた冗談さえ言えば存在を許される位置につけた。これが、ことあるごとに多大な期待をかけられる立場だったり、何をしても認められない立場だったら大変だった。これで一先ず、一年は安心だ。油断は大敵だが、一度決められたポジションは、そう簡単には変更できない。周囲にも、自分自身にも。
 その点、早雨にはまだ可能性が残っているのだ。ここにきてニ週間、まだ周囲からの認識を変える好機は存在する。それなのに彼は毅然として、振る舞いを変えようとしない。初めは新しいものを歓迎していた生徒も、早雨の反応を見て段々と離れていった。孤独が好きな人間はいても、孤立が好きな人間はいない筈だ。彼だって現状を、必ずしも良いものとは思っていないだろう。


 一日の授業が終わり、なんとなく美春のいる辺りの空間を見ていた。あの日の会話から数日が過ぎていたが、あれから彼女とは一度も口を利いていなかった。
 美春は机の上に置いた鞄に両手をかけ、早雨が教壇で提出物をまとめている姿を見詰めていた。彼が立ち上がるなり美春も立ち上がり、殆ど付いていくような形で教室を出た。視界から消える寸前、美春が早雨に話しかける姿がかろうじて見えた。何を話しかけているのだろう。今朝のことか、授業に関する質問か、どうでもいい世間話か。二人とも僕から見てよく分からない生物だから、見当が付かない。もしかすると、ここ最近美春が休まず学校に来ているのは、彼がここにきていることが起因しているのかもしれない。
 釈然としないまま友人とだらだら談笑した後、教室を出て旧音楽室へ向かった。西側の階段を下り、金属製の扉を開ける。教室とは言い難い、窓一つ無い倉庫のような場所、それが僕の所属するクラシックギター部の部室だ。ラの音が出ないアップライトや電源の入らないオルガン、弦の張っていないガットギター、様々な楽器のケースなどが無造作に置かれており、どれも今は使われていない。いずれもかろうじて演奏に使用できないレベルに痛んでいるので、見て楽しむくらいにしか活用できない。
 案の定、部室には今野しか来ていなかった。それもそうだ。そもそも部員は四人しかしないし、真面目に来るのは僕と今野の二人くらいなものだ。僕がここに来ているのも、単純に学校という場所が練習に集中して取り組むのに適しているからであって、別に部活そのものを良しとしているわけではない。
 高校生でクラシックギターを演奏する人間は希少だ。こうして真面目に部活にきている僕でさえ、半分はクラシックとは言い難いジャンルの曲を弾いているくらいだ。クラシックのみを追及する人間となれば、運動部で言うならカーリング部と同じくらいの規模でしか存在しないだろう。高校生の大半は、エレキギター、次いでフォークギターに走る。仕方の無い話だ。地味で複雑で融通が利かないのがクラシックギターなのだから。
 今野は部室に入ってきた僕を一瞥すると、またトレモロの練習に戻った。僕が変則チューニングでトミー・エマニュエルを弾き始めると、露骨に嫌な顔を見せた。ここはクラシックギター部ですよ、と表情が言っている。構わず弾き続ける。
 まだ、先輩がいた頃のクラギ部を思い出す。一人、多才な先輩がいた。あの頃は彼に惹かれて入部してくる人が少なくなかった。部員に女の子もいたくらいだ。実を言うと僕もその一人だ。彼はギターを用いて、学校中で様々なパフォーマンスをした。それがクラシックギター部のあるべき姿かといわれるとそうではないが、少なくとも今より活気があった。彼が卒業した途端、部員の多くを占めていた三年生がいなくなったのと部を辞める人が続出したのとで、こんな有様になったのだ。今では半ば同好会扱いされているが、今野が頑張っているので部活の体裁は保たれている。
 現在部長を担う今野は、技術的な面は大したものなのだが、周囲の目を惹くような人間ではなかった。例の先輩と比べるのも酷な話だが、このままではクラギ部も近いうちに廃部だろう。僕らが卒業したらそれでお終いかもしれない。
 最初の十分で今日は指の調子が芳しくないことが分かったので、気に入った数曲を丁寧に弾いた後、早々に部室を出た。その間、今野と口をきくことは一度も無かった。互いにあまり喋るほうではないし、ことに今野は時々どんな声だったか忘れるほどに口を開かない人間だ。全く整えた様子の無い長い癖毛が眉の辺りで曲線を描き、外へ向かっている。細目から見える瞳は全体の三分の一くらいで、教育実習生徒は別の種の、顔で損をする人間だ。最も性格の方がこの顔にしたと考えられなくも無いが。
 帰途に着く。この時間帯はランニングをする野球部やサッカー部と重なる可能性がある。彼らと鉢合わせになると道を譲ったり譲られたりが煩わしいので、普段とは少し違う道を行く。通学路の脇にそこそこ大きな公園があり、そこを通り抜けることで、通常の道と同じくらいの時間で帰ることが出来る。その際は一旦自転車からは降りなければならないが、景色がまあまあ豊かなので、損をした気分にはならない。
 回転する車輪が、水溜りに沈む落ち葉を踏み潰す。濡れたタイヤが乾いた地面に二本の線を残していく。犬を連れて散歩する人や、犬に連れられて散歩する人と擦れ違う。追い越される。遠くに見える遊具には子供が群がる様子も無く、原色で彩られた滑り台やブランコのある周辺は、かえって寂然としている。
 背もたれのある比較的新しい木のベンチに、楕円形の眼鏡をした女性が腰掛け、茶の革のカバーをかけた文庫本に視線を落としていた。互い顔が十分に分かる距離になった辺りで目が合う。僕が挨拶をすると、彼女は素早く老眼鏡をはずし、ケースに戻した。
「こんなところで瀬良さんに会うなんて、思いませんでしたよ」
 瀬良さんは地面を指差して、「広い公園はここしかないからね」と微笑した。
「最近はそこらじゅうに瀬良さんがいますね」
「今年の春は暖かいから」
「暖かいと、瀬良さんは活動的になるんですか」
「うん。だから、沖縄に行ったりすると、すごい」
「どうなるんですか?」
「走る」
「瀬良さんが?」
「ああ。ジャンプもする」
「温暖化が進みませんかね」
「進まないかなあ」
 自転車のハンドルに両手と顎を乗せて話していると、耳障りなブレーキ音がした。年寄りの自転車が立てる、あの音だ。つい最近も似たような音を聞いた覚えがあった。
 思い出すのとほぼ同時に、傍のフェンス越しに早雨と目が合った。早雨は掌を見せ、僕に軽く挨拶した。会釈を返すと、瀬良さんも早雨の方を向いて、同じように会釈する。早雨は瀬良さんに対しては深々と頭を下げ、また歩いていった。
 彼の後ろ姿を見送りながら、瀬良さんに説明する。「教育実習生の人です」
「小菅と仲が良いんだ」
「どうなんでしょう」
「背が高い人なんだね」
「僕より高いみたいです」
「ねえねえ」
「はいはい」
「私、保護者と思われたかな」
「似ていないから大丈夫です」
「そうかなあ」
 瀬良さんは僕の顔を凝視した。いたたまれなくなった僕は「じゃあ」と言って、自転車を押し始めた。
 公園を出てしばらくペダルを漕いでいると、早雨の背中が見えてきた。気のせいかもしれないが、背中から上機嫌が伝わってきた。
 早雨の自転車が信号で停止する。今度は僕が彼に追いつく形となる。
「いい場所だね、あの公園」
 早雨が僕の方を向き、口を開く。
「さっき、小菅の隣にいた女性。俺も、あの人は知っているんだ」
「瀬良さんを?」
「瀬良さん、というんだ」
「ええ。瀬良さんです」
「小菅の親戚か何か?」
「母です」
「ええ?」
「嘘です。ただの知り合いですよ」
「相当年上に見えるけれど」
「実際にそうです」
「でも、素敵な人だね」
「そうですよ」
「俺、ここに引っ越してきた当時、あの女性に助けてもらったことがあってさ」
 遠い目をして、西洋の眼を輝かせる。二十を過ぎた人がする表情ではなかった。
「そのときは随分助かったんだ。それで、彼女のことを少々尊敬しているんだ」
「はあ」
「小菅は、あの人とどういう形で知り合ったの?」
 目前をバスが通り過ぎていく。意味も無く車内の様子を目で追いながら、僕が瀬良さんと初めて話した日を思い出す。
 顔だけならそれ以前から知っていたが、それ以外に分かるのは、近くに住んでいるということくらいだった。彼女と最初に会話らしい会話を交わした場所は、自宅から徒歩二十分くらいのところにある広場だった。突然肩を叩かれ、見ると近所に住む女の人がいて、彼女が指差していたのは、一匹の首輪の付いていない犬だった。
 瀬良さんは笑っていた。あの犬の何が可笑しいのかと疑問に思って見ていると、普通の犬なら片足を上げて用を足すところを、その犬は両足を上げてやってのけた。どうやって、と問われると言葉で答えるのは難しい。筆舌に尽くしがたいという奴だ。とにかく犬は両足を上げて用を足したのだ。僕も思わず「すごい」と感心してしまった。実にくだらないこと。
 以来瀬良さんとは、顔をあわせるたびに幾つか言葉を交わすようになった。ここまで思い返して気付いたが、あまり綺麗な出会いとは言い難い。黙っておくことにした。
「忘れました」
 早雨は少し残念そうに「そうか」と言った。
「あ、思い出しました。楽器店です」
「楽器店?」
「楽器店で僕が楽譜を探していると、彼女が『これだよ』と差し出してくれたんです」
 これは実際には、二度目の出会いだ。僕が店員に相談して一緒に棚を探しても見つからなかったものを、偶然その場に居合わせた瀬良さんが見つけ、渡してくれたのだ。
「そこの店員なの?」
「いえ、客ですよ」
 よくわからないな、と早雨は言った。そのときふと頭に閃くものがあって、平生の僕なら取らないような行動に出た。
「瀬良さん、褒めていましたよ。礼儀正しいって」
「さっきのこと?」
 途端に早雨の顔に明るみが差す。その表情の変化を逐一観察しながら、僕は「ええ」と答える。
「さっきのことです」
「そうか」
 短い返事だが、力がこもっていた。
「瀬良さん、だったな。瀬良さん」
 外人が新しく覚えた日本語を繰り返すように、言う。
 早雨が僕と接点を持とうとした理由が分かった。

つづく


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